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自分で選ぶ人生です
私が、外国からのお礼の手紙に目を通していると、白人カップルが歩いてきた。ドクターは、パッとイスを立ちあがって通 りで立ち止まった彼らに近づいていった。
「ハロー。私はドクター・ホー。私のことを知ってますか?」と英語で声をかける。
「ドクター・ホー?・・・あァ、ガイドブックに出てたみたいだけど・・・」
とカップルの男の方も英語で答えた。
「そうです。その有名なドクター・ホーです」
「あなたが?」
「イエース! イッツ・ミー!」
というと、顔を上向きかげんにして、歯を見せて明るく笑った。自分で自分のことを有名っていうかなァ・・・。しかし彼のいい方には嫌味がなく、自分が載ったガイドブックの記事を単純に自慢したいだけなのだろう。彼の言葉や行動には、どことなく憎めない滑稽さがつきまとっている。
「どうぞこちらへ」といって、彼らをテーブルまで招き、ハーブ茶をふるまう。こんな感じも変わっていない。だから旅人は、彼のことを知らなくても、なんだろう、だれなんだろう、怪しいオッサンかな?と疑いを持ちつつも興味を示し、知らず知らずのうちに、ドクター・ホーのハーブ茶を飲み、ドクター・ホーの世界に足を踏み入れてしまうのである。
客のもてなし方はうまい。それでなければ、何百通というお礼の手紙がきたりするはずはない。人によっては、自己ピーアールがじょうずで、うまいこと外国人と付き合ってるなと、陰口もたたかれる。旅行者の間でも、彼の評価は分かれる。しかし、それはだれについてもそうだろう。とくに有名人ならなおさらだ。
彼は麗江テレビのインタビューに答え、
「時と地の利、人の和に恵まれたので、よい結果を残すことができたのです。私は単に、ナシ族の民間医療の一部を発掘したに過ぎないんです」
と語っている。
それと彼の人懐っこい人柄がなければ、彼をこんなにも有名にはしなかっただろう。つまり、医術は人術なのだなァとドクターを見ていると思う。極端な話、彼の調合するハーブが科学的に、あるいは医学的に効果 があるのかどうかは、二の次なのだ。彼を信じるからこそ、彼が調合するハーブはその人の病気を治す。ドクター・ホーとはそんな医者なのかもしれない。
御飯を食べて下さい、といわれ、診察室の建物を通り抜けて、中の母屋の方に入った。ドクターの奥さんと息子の嫁さんがいて、「ナシババ」と呼ぶナシ族のパンと、ジャガイモ・ニンジンを炒めた料理を出してくれた。昔彼を訪ねたときも、すぐに食事によんでくれた。特別 の料理ではなく、普段の食事なのだが、その家族のもてなし方が、自然で暖かい感じがした。
1年前地震が襲ったとき、ドクター一家はテレビを見ていたそうだ。幸い、家族に犠牲者はでなかった。家も倒れなかったが、瓦の一部が落ち、日干しレンガの壁が崩れ、診察室のある通 りに面した古い木造の建物の方は、斜めにゆがんだ。その時の様子を奥さんは身振り手振りで説明してくれた。
食事のあと、再び表の日だまりで話をしていると、昔はなかったマイクロバスの路線バスがやってきて、診療所の前で止まった。中からドクターの息子の述龍さんが降りてきた。
「お元気ですか? ひさしぶりですねェ」
と流暢な日本語であいさつをした。以前彼は日本語を勉強し始めたばかりのころで、これほど日本語はしゃべれなかった。今では麗江のある学校医として働いているが、英語・日本語・ドイツ語・フランス語にも精通 しているドクター・ホーの息子として有名になった。
先ほどの白人カップルがイスラエル人とわかると、述龍さんは「シャローム」とあいさつをした。彼はヘブライ語もわかるんだろうか・・・。数年前にドクターを訪ねたとき、3才半になる孫の手を引いて歩く普通 のおじいちゃんに戻ったドクターを、ほのぼのとした気持ちで見ていたことがあった。ドクターと孫のドゥセウちゃんは盛んに話しをしていた。ナシ語の会話なので、私には聞き取れなかったが、それはどこの国でも同じの、おじいちゃんと孫とのたわいもない会話なのだろう。しかし冬の白い日だまりの中で、着脹れした格好でゆっくりと歩いているふたりの様子を見ていると、自然に「幸せ」という言葉が浮かんできた。医者としてのドクターを離れて普通 のおじいちゃんと孫になっている。
私は、こんなふうに聞いたのだった。
「お孫さんにも医者になってほしいですか?」
すると、彼は孫が用水路に落ちないように見張りながら、
「そう希望しています。なぜなら、医者の仕事というのは、終わりのない仕事です。これで十分ということのない仕事なんです。私がやっている薬草の研究も引き継いでいってくれればいいと思っています。でもけっきょくは、彼が自分で選ぶ人生ですがね・・・」
と答えたものだった。
「自分で選ぶ人生」と聞いて、私の親のことをそのとき思い出した。
今のところまだ写真で食べていくのは無理なので、日本に帰るとアルバイトをしているが、そのアルバイトしながら写 真を撮り続けていることを、なかなか親は認めてくれないんですということを、ドクターに話すと、
「親はいつかは認めてくれますよ。 自分の子供が幸せになることを望んでいるのは、どんな親だって同じでしょう? 時間はかかるかもしれませんが」
「そうでしょうか・・・」
31才になっていた私は、そういった。やることなすこと人より遅れてしまうというのが、引け目になっていて、写 真に関しても「もっと早くから写真を撮り始めていたらなァと、当時は考えていた。後悔というほどのことではなかったが、どうして何でも遅いのか自分の性格が恨めしく思っていた時期だった。
ただ、今では「遅い」というのは、人と比べてのことであって、大した意味はないのだと思えるようになった。40才から始める人もいるだろうし、50才から始めてもいいのである。結局マニュアルはないのだ。人それぞれ、機が熟せば自然にそうなっていくものなのだろう。
だいたいにして、今は写真を撮っているが、将来も写真を撮り続けていくかわからないのである。別 な機が熟して、「役者になるぞ」と決意して、そっちの道に進むかもしれない。そんなとき「もっと早くから役者をめざしていればなァ」などと後悔しても始まらないことだ。もっとも私は役者になろうなどと決心することは絶対ありえないだろうと思う。実人生でもすでに演技をしている役者のようなものだから、それで十分である。「実は今、パソコンが欲しいんですよ」
とドクターはいった。薬草の研究を記録しておくためらしい。それにしても70才をとうにすぎた老医者が、まだこれからパソコンを勉強しようという気力はたいしたものだ。
「地元で買っても、すぐ故障する。故障したら、部品がないから修理はできない。そもそも新品の製品でさえ、たまに部品が抜いてあったり、ほかのメーカーの安い部品に付け替えられていたりと、信用ができないですからねェ。」
彼は残念そうだが、それほど怒っている様子もなく明るい声でいった。変なところで苦労しなければならないようだ。
偽札やコピー商品が氾濫し、それが社会問題となっている中国では、売る方も買うほうもお互いが疑り合っている場面 によく出くわす。
麗江の商店で、タバコを1カートン買おうとして女性の店員に50元札を渡すと、それを裏表返しながら蛍光灯の明りに透して見始めたので、私は「俺みたいな善良な人間が偽札使うと思うのかァ?」と日本語でいい、彼女に対抗して、差し出されたタバコの箱を子細に観察してジャーイェン(偽タバコ)かどうか調べ始めるという漫画のような光景はあちこちで見られるのである。パソコンという高額商品についてはなおさら信用できなくなるのだろう。
「まァ、いつかは手に入れますよ。故障しないパソコンをね。そうなると、やっぱりあなたの国の日本製ですかねェ」
と彼はいって、歯を見せて高々と笑った。
帰るとき、ドクターに風邪薬を調合してもらう。1月の麗江は寒く、風邪気味だったのだ。彼に症状をいうと、薄暗い診察室の中に入っていって、壁の棚から、ガラス瓶をいくつか取りだしてきた。その中から薄緑色や茶色の粉末を3種類ほど混ぜ合わせて、それを紙に包みながら、
「そういえば、気がつきました? 玉龍雪山の雪です。この1月にあんなに雪が少ないのは本当に珍しいことですよ」
「地震のせいですか? 町で、そんな話を聞きました」
「そうなんです。地震のあと雪が積もらなくなったんです」
さっそくその晩、麗江のホテルでお湯を注いでハーブのうわずみを飲んだ。夜中、体が暖まって汗をかいた。そのせいか、翌朝は頭もすっきりし、風邪は治ったようだった。しかし、腹の調子が良くなかったのは、このドクターに調合してもらったハーブのせいだろうか。私の体は、化学薬品に犯されていて、もはや自然の薬草は逆効果 という悲しい状態なのかもしれない。(文中のドクター・ホーの家族の写 真は、1998年12月撮影のものです。その後も何度か、ドクターのもとを訪ねています。看板は昔と変わりませんが、診療所の一部は、新しい建物になっています。まわりには、土産物屋もいくつかできました。現在ドクターの診療所は、観光名所にもなっています。2002年3月記)
虎跳峡のトレッキング
朝の8時半に麗江を発って3時間ほどして、中型バスは峠を越した。
「あれが大具だな・・・」
眼下の金沙江ぞいの盆地に、ちょっとした村が見えた。そこが、揚子江上流に当たる金沙江の虎跳峡トレッキング・ルートの入り口になる大具だった。そこから約25キロを、峡谷の反対の出口、橋頭まで途中1泊して歩くのだ。金沙江は、橋頭から大具に向かって流れているので、私は川をさかのぼることになる。
何度も麗江までは来ていたのに、まだ玉龍雪山を一回りするトレッキングをやったことがなかった。今回こそはと意を決して挑戦することにしたのである。
1泊する予定の村、核桃園まで大具から4時間ほどかかるというので、ゆっくり昼食するのをやめて、商店でビスケットと水を買い込み、すぐに出発した。村には明るいうちに着きたいと思ったからだ。村人から渡し船の方向をだいたい聞いて峡谷に向かって作物のない畑の道を歩いたが、1本道であるわけでもなく、少しまごついてしまった。
途中で会ったふたりの初老の男たちに渡し船はこっちの方でいいのかと聞くと、
「すぐそこだよ」
と教えられた。しかし雲南における「すぐそこ」は、さらに1時間ほどかかったところだった。
太陽が照りつけ、1月とは思えないほど暑かった。わずか4時間前までは麗江の町の寒さに不平をいっていたのに、今度は金沙江の暑さに文句をいう。旅人というのはどうしてこうわがままなんだろう。いや、わがままだから、旅人になったのかもしれない。
坂を上り切ったところに売店があったので、ジュースを買って喉を潤す。核桃園へはこの道で間違いないことを売店の女性に確かめた。
そこからは切り立った崖の急坂をジグザグに降りていった。ずっと下に見える川面 まで150メートル以上はありそうだった。もちろん手摺などないから、石ころに滑って転落する可能性もある、危険な道だった。
向こう岸も大きな一枚岩のような壁で、絶壁に挟まれた峡谷が延々と西に向かって続いているのを目のあたりにして、何万年かかったか知らないが、岩が川の水にゆっくりと削られながら大峡谷を作っていく、そのとてつもなく長大な時間を想像して、溜め息が出てしまう。
ようやく40分くらい下ったところで、金沙江の岸に着いた。道がと切れていたので、そこが渡し船の乗り場に違いなかった。人影もなくまったく静かな河畔だった。水は意外にも緩やかに流れていて、水面 は鏡のようになめらかで、両側の切り立った崖が写っている。
「おーい!」
峡谷に自分の声が反響する。返事はない。もう一度、日本語で叫ぶ。
「腹へったーッ!」
すると、どこかでエンジンをかける音がした。ようやく下流の方から1隻のモーターをつけた船が現れた。20人は乗れそうな木造船だ。客はもちろん私だけである。
「シークワイ(10元)」と不愛想だが、人のよさそうな船頭がいった。わずか1分も乗らないこんな渡し船にしては、10元はべらぼうな値段のような気もしたが、恐らく外国人ならこの値段くらい払うのは当然だとでも思っているのかもしれない。
川には白い泡が浮いていて汚かったが、上流の生活排水だろうか。対岸に着いたとき、籠を背負った地元の男が船を待っていて、私と入れ違いに、向こう岸に渡っていった。
そこから崖をジグザグに上っていく。なかなかきつい坂だった。ハーハー息を切らして上り切ると、崖上の平坦な道になり、山羊が放牧されていた。45分くらい崖っぷちの道を歩くと、30戸ほどの村が見えた。そこが核桃園だった。川沿いの斜面 は段々畑になっていて、麦の緑色が美しかった。
「こんな村がまだ雲南の山中にはあるんだよなァ・・・」
桃源郷と呼ぶには地形が険しすぎるが、しかし喧騒の町からこんなところにやってくると、やはりホッと溜め息が出るほど落ち着けるのだった。
村の入り口に「関所」があった。近づくと窓から小学1年生くらいの男の子が顔を出し、チケットを差し出して「10元」という。別 に疑ったつもりもなかったが、チケットに書いてある「10YUAN」を指差し、彼は嘘ではないでしょう?といった顔をした。
川の対岸は切りたった崖で、首が痛くなるほど見上げても、頂上は隠れていた。道沿いにゲストハウスがあり英語の看板も架かっていた。
女性が出てきて「部屋、ありますよ」と英語でいった。白人のトレッカーも数人いて、ベランダでビールを飲んでいた。
部屋に荷物を置いて、夕暮れの峡谷をゆっくりした気持ちで眺めていると、そこへ馬を引いた男がやってきた。50前後のその男は、馬の背に振り分けてあったビールの入ったふたつの籠を下ろしてから、山から引いてある水道の水で顔を洗ったあと、お椀に白酒を注いで飲み始めた。
「今日はどこへ、行きましたか?」と私は声を掛けた。
「橋頭から7時間かけてビールを運んできたんだよ。明日は空ビンを運んで橋頭へ戻るつもりさ。白人たちはビールが好きだからな」
そういって、ベランダの欧米人たちを顎でしゃくった。
「商売繁昌、いいですね」というと、
もう赤くなりかけた顔を嬉しそうにほころばせて彼はうなずいた。
虎跳峡は北の哈巴雪山と、南の玉龍雪山の間を流れている長さ約16キロの大峡谷だ。金沙江の川幅が一番狭いところはわずかに30メートルで、伝説ではそこを虎が飛び越えて向こう側に渡った。それで「虎跳峡」と呼ばれるようになったという。
虎跳峡は地元の人たちにとって、峡谷という厳しい地形に制限されて、町からは交通 の便も悪く、耕す土地さえ確保できない、生活する上では決して恵まれた環境ではなかった。それが観光地として脚光を浴びるようになった。
昆明から南東に130キロいった石林もまた、農作業には適さない奇岩珍岩の土地だったが、その奇妙な風景が観光地として地元の人たちの生活を豊かにする役目を果 たした。何が人間を助けるかわからない。反対に何が災いするかわからない。
グルメ時代などといわれ、何でも食べれるようになったと思ったら、それが糖尿病などの成人病が人間を蝕み、人間を楽させようと作られた様々な機械が、逆に運動不足を生み出して、わざわざ車で行けるところを歩いたり、エレベーターで上れるところを階段で歩くという皮肉なことになっている。
「88年だったかなァ。ちらほらと外国人がここにやってくるようになったころだ。ある日、達者な中国語をしゃべる白人がやってきた。その白人が[食べ物あります]と英語で看板を書いてくれたんだ。その看板が始まりで、この核桃園に初めての食堂と旅社ができたっていうわけだ。でも当時の建物はもう崩れて使われていない。あそこにあったんだがね」
そういって大具方向を指さす。50メートルはなれたところに崩れた白壁のあとが見えた。
「もっともまだそのころは今のように正式に外国人に開放していたわけじゃァなかったから、彼はもぐりでやってきていたんだな」
その後、ここに新しいゲストハウスができた。数年前のことである。谷側に建っている新しい2階建ての棟は、前年3万元をかけて増築したもので、あと2年で元はとれるだろうといった。
「ここから橋頭まで道はわかりやすいですか?」
「この道をひたすら真っ直ぐ行けば大丈夫。馬のひづめの跡をたどれば安心だ」
そういって、ゲストハウス前の一本道を指差した。
「でも2年前のことだったがな、白人カップルが行方不明になったんだ。道に迷ったらしい。女の死体はカラカラに乾いて見つかったが、男の方はついに発見されなかった。女の持ち物にはお金も残っていたんで、強盗ではなくて、足を踏み外して動けなくなって、餓死したんだろう」
と男はいう。あくまでも彼は「強盗ではなく、事故だった」と強調したいようである。
あとで宿泊客のアメリカ人トレッカーに、2年前ツーリストがふたり死んだらしいョというと、「ボクが聞いた話によれば、昔は強盗も出て、何人か殺されているらしい。しかも道は危ない箇所がたくさんあって、転落することも簡単だ。ツーリストは毎年死んでるんだ。別 にこのふたりばかりじゃないさ」と怖いことをいった。
核桃園の夜
「地震のあと、雪がなくなった」
男は玉龍雪山を見上げていった。このセリフは麗江に滞在中、いろんな人から聞かされた。村の老人も、旅行代理店の若者も、商店の夫婦も、ドクター・ホーもこのセリフを口にした。地震があって麗江の気候が変わってしまったんだよという人もいた。天罰だといってしまう人さえいた。よほど雪がない玉 龍雪山は珍しいのだろう。
地震のときは村では倒れた建物もあったそうだ。雪山からは大きな岩が落ちてきて、砕け散った。それを外国人トレッカーたちは、喜々として写 真を撮っていたという。なんとなく彼らの姿が目に見えるようだった。自然災害さえも観光資源になってしまう。
「山では猿や熊を見たことがある。昔はよく対岸の崖を降りてくる猿がいたもんだよ。今は少なくなったがね。そして保護動物だからもう捕まえることはできなくなったしな」
「『虎跳峡』というくらいだから、今でも山には虎も棲んでいるんですか?」
「いる」
男は川の対岸を見つめながら、真面目な顔できっぱりといい切った。あまりにも断定的な言い方だったので、ほんとに見たんか?と内心ニヤニヤしながら彼の顔を探るようにうかがっていると、私が疑っているのを勘づいたらしく、
「あんたは信じないのかね?」
と軽蔑するような声でいった。
「そういうわけではありませんが・・・」
「いることはいる。絶対いるんだ。でもな、それは神虎なので、我々人間は見ることはできないのだ」
「神の虎ですか?」
「そうだ。きっと地震になったのも、雪がなくなったのも、神虎の仕業かもしれん。人間が悪さをすると、神虎が懲らしめるんだろ」
酒の酔いが回って目を赤くした男は、表情だけは真剣にいった。
「それじゃァ、人間が何か悪いことをやったんですか?」
「わしには、わからん」
彼は顔を崩して笑った。この男はどこまで本気でいっているのだろうか。しかし酔っぱらいのたわごとだと一笑に付すには、引っ掛かるところがあった。それは絶壁に挟まれた峡谷の、人間を寄せ付けないような厳しい環境が、神虎なる存在を信じ込ませるものを持っているということだろう。
このゲストハウスは村の集会所の役目もはたしていた。夜になると、村の若い衆たちがやってきて包谷(トウモロコシ)酒を買って飲んだり、麻雀をしたりして騒いでいた。2度停電があった。
私は早めに電気を消してベッドに入った。イヌの泣き声。金沙江の水音。月明りが窓からうっすら差し込んでいた。段々風が強くなっていき、建て付けの悪い窓がガタガタと耳障りな音を立て始めた。
10年前の麗江は、いかにも「秘境」といった趣のある、やけに老人だけが目立つ埃っぽくて重々しい感じの町だった。食事をするところが少ないというのも、我々旅行者にとっては困った問題で、それが不便さや地味さに通 じるところもあった。ただ、そういった雰囲気がまた、雲南の奥地を感じさせる麗江という町の魅力でもあったわけである。
たまたま招待所でいっしょになった日本人旅行者と国営食堂に入ったとき、彼の頼んだ御飯の中からゴキブリが出てきた。彼が平気な顔で「これも蛋白質、蛋白質」と呪文のようにいって、その長さ2センチばかりのゴキブリの死骸を箸でつまみあげたとき、おい、それ食っちゃうのかァ?と一瞬驚いてしまったが、さすがにそれは床に捨てて、何もなかったように御飯を食べ始めた。
床に仰向けになっている死骸を指差して、私は「こんなの入ってたぞ!」と従業員の女に日本語で文句をいったが、彼女は表情ひとつ変えずにそれをチラッと一瞥しただけで厨房へ入っていってしまった。中国での従業員の態度の悪さに慣れていたとはいえ、さすがにこの時は腹が立った。しかし当の本人が黙々と御飯を食べ続けるのを見て「おたく、もう中国人になりきってますねェ」と、私は怒りの気持ちもどこかへいってしまい、ひたすら感嘆の目で眺めたものだった。
それが今では、御飯にゴキブリなどという汚い食堂は姿を消して、小綺麗なレストランもたくさん営業している、あんなに賑やかで華やかな町に変貌した。
しかし観光化が進んでいるとはいっても、さすがにこんな田舎に来るとほとんど観光客は来ないし、10年前と何も変わらない村の生活が残っている。
飛行機で地球の裏側まで飛び、インターネットやテレビの情報は瞬時に地球をかけめぐる。世界は狭くなったという。本当にそうなのだろうか。
雲南にいると、世界が狭くなったという言葉に実感が沸かないのはどうしてだろうかと思う。虎踏峡の核桃園に来るだけでも麗江から1日がかりだし、隣の谷にはどんな村があってどんな人が住んでいるのか、まったくわからない。例えここで私が崖を踏み外して川に落ちてもだれも気がつかない。虎踏峡に神虎がいることなどここに来て始めて知った。
知識として知っていても、実際そこへいったり、それをやったりすると、決して同じことは起こらないし、決して同じことを感じない。だから旅に出て、頭ではなく体で知るのがおもしろいんだろうなと思う。人の体験談を読んで知ったつもりになるのが一番いけない。いやいや、このエッセイを読んでいるあなた違いますよ。もちろん。
臭い匂いを嗅いだり、腹を壊したり、太陽の暖かさが土地によって違うことなど、実際その場へ行かなければわからないことを、面 白いと感じるかどうかだろう。その気持ちを持っているのを、旅人というのではないかと、私は考えている。
情報化社会といわれる社会になればなるほど、その反動として、自分だけの体験を求める人たちも逆に増えていくかもしれない。それがどういうふうに臭いのか、どんなふうに腹が痛いのか、どのくらい太陽が暖かいかと感じるかは、結局他人とは共有はできない自分だけの感覚である。今のところ、私は「世界は狭くなった」という実感をもつことはできない。だから旅が面 白い。地球はまだまだ面白い。
神虎あらわる
翌朝8時に、具のない御好み焼きのようなナシ族パン「ナシババ」と蜂蜜を頼んで、軽く朝食をとったあと出発した。
前の晩から吹き始めた強い風はまだ収まっていなかった。しかも運悪く向かい風だった。金沙江の谷は風の通 り道なのだ。深い谷にはまだ太陽は当たらないので、ダウンジャケットを着ていても寒くてしかたない。寒いというより、風が当たって痛いといったほうがよかった。峡谷の写 真を撮りながらのんびり歩こうという計画は壊れ、ひたすら「北風と太陽」の旅人のように黙々と歩き続けるしかなかった。
沢の小さな滝の手前で立ち止まって上を眺めた。こぶし大の石が、ひっきりなしに落ちてきていたのである。崖を見上げても、どこから石が落ちているかわからなかった。風が石を吹き飛ばしているのだろうか。それとも上の方に動物でもいるのだろうか。その時ゲストハウスの男の言葉が思い浮かんだ。
・・・それは神虎なので、我々人間は見ることができないのだ・・・
「神虎か・・・」
崖から跳んで、風に乗って向こう岸へ渡っていく神虎の姿を想像した。しかしそれは虎というより、大きな蝙蝠のような姿としてしか思い描けなかった。
突然、ダウンジャケットのフードに当たる強風が、バタバタバタと耳元で不気味な音を立てた。それが蝙蝠の羽音のようにも聞こえてきて、思わず武者震いをして辺りを見回したが、見えるはずはないのだと気がついた。神虎なのだから・・・。
待っていても石の落下はおさまりそうにもないので、頭を手で押さえ、ままよとばかり隙間を縫って走った。運良く石に直撃されることはなく、無事に通 過することができた。
次に現れた滝では濡れた地面の岩が凍結していて、それをソロリソロリと両手をついて歩いていった。岩から滑り落ちたら一巻の終りである。これは命がけではないか。虎跳峡で死んだ白人カップルの話。昔は強盗もでたという話。余計な知識が恐怖心を煽ってしまうのだった。
まるで、サバイバルゲームのようになってきた。そんなに危険な場所だとは知らないできた私の気楽さが恨めしかった。
神虎は人間が悪さをしたら懲らしめるのだと、男は本気とも冗談ともつかずにいったが、2年前に死んだ白人の男女は、何か悪さでもしたのだろうか。あるいはふたりは見せしめに殺された・・・。
突然風がまた強くうなりだした。フードが飛ばされて、頭が外気にさらされた。耳が痛い。急いでフードをかぶり直し、紐をしっかり結んだ。土埃が目に入ったので、手で両目を覆って、岩場にしゃがみ込んで風をやり過ごした。1分ほどして風が弱まったき、目を開けると、そこには背の低い可憐な白い花が風に震えていた。
3時間歩いて、橋頭の方から若い男女のカップルがやってきたとき、初めて人に出会った嬉しさから自然に笑顔が出てしまった。彼らも外国人トレッカーで、私とは反対回りで虎跳峡を歩き、今晩核桃園に泊まる予定だという。
「橋頭までは3時間くらいかな。途中にトンネルがあるけど、それは穴が最後まで開いていないので、下の崖を迂回するしかないよ。危ないとすればそこだけだったね」
と英語で教えてくれた。
彼らと分かれてしばらくいくと、親子が橋頭の方向から歩いてきた。40くらいの父親と、10くらいの息子。二人の服装は、継ぎはぎだらけでお世辞にも綺麗とはいえない。服装から判断する限り、かなり貧しいのだろう。
私の前を通り過ぎるとき父親は声をかけた。「どこまでいくんだい?」「橋頭まで。あなたたちは?」
たぶん村の名前なのだろう、父親は何かいったが、私には聞き取れなかった。
しばらく彼らの姿を目で追っていた。広い道から、崖をジグザグに上り始めた。45度はあるのではと思えるほどの急坂である。ふたりはゆっくりゆっくりと歩を進める。どこまで上っていくのだろうと、上の方に視線を移すと、民家の屋根らしいでっぱりがチラリと見えた。そうかあんな上にも民家があって人が住んでいるのか。
外国人トレッカーがいった通りトンネルがあり、奥に入ってみたが、行き止まりだった。まだ工事中で、穴は向こう側とつながっていない。それで入り口まで引き返し、覚悟を決めて崖を降りることにした。
土砂に残っている馬のひづめの跡で、かろうじて道とわかったが、確かに危険な道だった。岩ではなく、土砂が積もった斜面 なので、足元が不安定だった。私は突風が吹かないことを願い、山側に体を倒し、片手を地面 につきながら一歩一歩、土砂を踏み締め、崩れたりしないことを確かめて歩を進めていった。
70メートル下の川まで転落してしまったら、命は助からない。しかしこんな命がけの道も、地元の人にとっては、日常使わなければ生活が成り立たない道なのかと思うと、生活の厳しさが実感されてきた。彼らの祖先がいったいどういう思いでこんな厳しい峡谷へ分け入って暮らさなければならなかったか、それは他民族から追われたのかも知れないし、生活の場所がここしか残されていなかったからかも知れないが、少なくとも好き好んで移ってきたのではないということだけはわかる。
崖から谷底を覗き込んだとき、私はクラクラッと引き込まれそうになり、冷や汗が出た。そのとき、また巨大な蝙蝠の姿をした神虎が目にちらついて、心の中で叫んだ。
「俺が死んでも、だれも気にしません。見せしめには相応しくない、つまらない人間です!」
核桃園の住民には神虎が見えるのではないだろうか。いや、感じることはできるのだろう。神虎の存在を信じる者だけが、この虎跳峡で生きていくことができるに違いない。
トンネルの反対側に回ると急に道幅が広くなって、これでもう危険はないなと安心し、ホッと溜め息が出た。運動会の障害物競走(私は運動会が死ぬ ほど嫌いだった)が終わったあとのように、しばらく道の真ん中に立ち尽くして、それまでの緊張がほぐれていくのを待っていた。
と、橋頭の方向から続々と中国人が歩いてきた。どうも格好が変だった。変だというのは、地元民には見えないし、ましてや道路工事の人夫でもなかった。ハイヒールを履いた女性だったり、カメラやビデオを肩から下げて高そうな背広を着て、まったく汚れのない革靴を履いた男性だったりと、トレッキングをする人たちにも見えなかった。
サングラスをかけた男性が、峡谷をバックに、ミニスカートにハイヒールの女性の記念写 真を撮っていた。彼は日本製の一眼レフカメラを構えて、「もっと後ろに下がって」というと、彼女が崖から転落しないように、足場を気にしながら「ここでいい? ちゃんと川も入れてョ」といった。
何ごとが起こったのだろう、どうしてこんな人たちが山の中を歩いているんだろうと、私はあっけにとられたまま、彼らの様子を横目で見て、砂利が敷き詰められた歩き辛い道を、靴を擦るようにして歩いていった。
その疑問は200メートル先へいってわかった。単純な話だった。要するに観光バスでそこまでやって来ていたのだ。彼らが乗ってきた大型バスが道に止まっていて、ドライバーが暇そうにしゃがみ込んで煙草をふかしていた。中国製ディスコ音楽がバスの中から流れていた。トンネルのこちら側は、自動車道路が完成してこんなにも観光地化が進んでいることと、橋頭が近いことを、私が知らないだけだったのである。
ドドドドッという掘削機の音が谷に響いた。見ると、対岸の岸壁で工事をしていた。向こう側にも道を作っているのだった。
あのトンネルはタイムトンネルだったのではないかと、そのとき思った。あまりにも突然、過去から現代に戻った気持ちだった。時間が止まってしまったような核桃園のたたずまいや、強風に乗って神虎が出現しそうな、人間を拒み続けてきた険しい峡谷が、ついこのトンネルを越えた向こう側にあったことが信じられなかった。
このトンネルで、はっきり10年間の時間のズレを感じたのである。
綺麗な服を着た彼らの一団が、汚れたダウンを着て泥だらけの靴を履いている私を、まるで珍しい動物でも見るような目付きで見送った。鼻先で馬鹿にしている男もいた。日本ででさえ中国人に間違われる私なのだ。当然彼らは、私を山を降りてきた地元の農民だと思ったのだろう。私は彼らの視線に押し潰されそうになりながら、どっと疲れが出て、軽い眩暈を感じたのだった。
それは雲南の10年間の時間をタイムトンネルで一気に下ったような疲労感とでもいえそうだった。そして突然目の前に現れた、神虎など存在できない近代文明という名の輝かしく、また不気味な光にしばらくの間、私の目は慣れなかったのである。おわり
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