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麗江へ 1997年1月
バスは峠を越えると、なだらかな丘陵地帯へと下っていった。
以前夏に来たときは、ジャガイモ、トウモロコシ、ムギ畑になっていたが、海抜2500メートルの1月の大地は、褐色の土で覆われていた。
1年前に起こった大地震の、被害が大きかったといわれる拉市の村を通過する。ほとんどの建物は新しくなっていたが、まだ工事中のもあった。民家の壁を作っていた日干しレンガが崩れていたり、瓦屋根が落ちていたり、地震で壊れたまま手をつけられていない建物もあった。
最後の丘を越すと、麗江の町が見えた。テレビ塔の立つ小高い獅子山を中心にして、大小不揃いのビルが、積み木を重ねたように建っていた。なんと近代的な町並みになったことだろう。開通 したばかりだという、町をまわる片側3車線もの幅広い道路が、玉龍雪山に向かって一直線に伸びていた。
1月は雨の少ない季節で、寒いことを我慢すれば、山を見るにはいい季節だ。海抜5596メートルの玉 龍雪山は、町の近代化とは対照的に、´86年に初めてここを訪れたときとなんら変わらず、麗江のシンボルとして偉容を誇っていた。
こちら側から見ると、雪山のピークはふたつくらいしかわからないのだが、本当は13もあり、山の向こう側、つまり北側から見ると、いくつかのピークが鋸の歯状に並んでいて、まるで龍の背中にも見えるのだった。それが玉 龍雪山の名前の由来なのだと、あるとき聞いた。
朝日が当たってピンク色に染まった山の写真を何枚も撮っていて、私にとっては見慣れた山のはずだったが、このとき、あれっ?と思ったのだ。
しかし何か心に引っ掛かったのも、一瞬のことで、それ以上深く気にすることもなく、私はやがて目の前に現れては消えていく、麗江の小綺麗になった町並みと、行き来する人たちに見入っていたのだった。長距離バス駅についた私は、フィルムや衣類などが入った大きなバックパックを肩で担ぎ、カメラバッグを手に持って、市内路線バスに乗り換えると、麗江古城(旧市街)へと向かった。この路線バスができたのもつい最近のことらしい。
古城の中にある、ナシ族建築を改造してホテルにした三合酒店に部屋をとったあと、古城全体を見渡せる獅子山にのぼってみた。´80年代後半に何度か写 真を撮った場所からは、前面に木が生い茂って、町並みが見えなくなってしまっていた。
別の場所を探そうと、丘を南の方に周りこんだ。ようやく捜し当てた場所から、古城の瓦屋根の、地震前と変わらない、落ち着いたたたずまいを見て、ホッとした気持ちになった。地震でかなりの民家が壊れているのではないかと心配していたのだ。そして町に入るときバスから見た近代的なビル群が、古城の民家もほとんどビルに変わってしまったのではないかと私に思い込ませていたのだった。
´96年2月3日・19時14分、麗江地区を地震が襲った。マグニチュード(?)7級。2月18日までの間に、地震が原因で死亡した人は293人、重傷3706人、軽傷11727人の被害があった。
雲南省は地震が多い。ここ10年間の大きなものだけでも、´88年1月寧莨県で5.5級、11月には瀾滄県で7.6級、´95年7月雲南南西部の孟連県で7.3級、10月には武定県で6.5級の地震があった。いずれも日本でニュースになった。
夕食の支度でもしているのだろうか、いくつもの屋根から煙がたちのぼっている。
丘の上から古城の中心、四方街へ向かった。幅1メートルか2メートルの狭い石畳の道を降りていくと、比較的人通 りの多い通りにぶつかった。用水路に沿ったその通りを右に曲り、家に帰る子供たちや、買い物籠に大根を突っ込んだお婆さんに追い抜かれながら、ゆっくりと歩いた。幅3メートルの用水路の向こう側の岸で、赤ちゃんをおんぶした女が洗濯をしていた。雪山からの綺麗な水が流れる用水路と、それに架かる石橋は、麗江古城に独特の風情を与えている。
昔私が子供のころにも、家の前の道に沿って、生活に密着したこんな用水路があって、覚えている限りでは、その水で米を研いでいたし、野菜も洗っていた。綺麗な水が流れていたが、たまに鮒なども泳いでいて、同級生の友人たちと網で捕まえて、家に帰って油で揚げて食べた。やんちゃで有名だったひとりの友人は、鮒をそのまま生で食べてしまったが、それを見てオエーッと吐き気がしたのを覚えている。
私たちは、大人たちから「小便なんかしたら、チンポ曲っぞ!」としょっちゅういわれていた。食べ物にも使う用水路の水を、子供たちが汚さないように、そういって大人は脅していた。あるときそれに口ごたえして「んだら、おなごが小便したら、どうなんなや?」と聞いたことがあったが、どういう返事が返ってきたかは覚えていない。
ところがすぐに、米を研ぐ光景も見られなくなってしまい、用水路は汚いどぶ川に成り果 ててしまった。高度成長期の、生活が便利になることが嬉しくて、環境が汚れるのをまったく気にしない時代だった。痛い目をみないと気がつかないというのが、私も含めたどうしようもない人間の性だから、この麗江の水路も、日本と同じ運命をたどってしまうのだろうか。
ナシ族象形文字のトンパ文字でハンコを作ってくれる土産物屋、中国のアイドルポスターを入り口に貼った理髪店や細々としたお菓子や文房具を売る雑貨店などが、通 りに沿って並んでいた。用水路を跨ぐコンクリート製の橋を渡ると、そこが四方街の広場だった。
昔、この広場は、背中に七星をあしらった民族衣装のナシ族、青色の民族衣装のペー族、黒い大きな帽子を被り、踝まで届くプリーツスカートを穿いたイ族たちが、新鮮な野菜や、豚肉、牛肉などを売り買いしている庶民的な市場だった。今やりっぱな観光地になった広場には、骨董品や民族衣装などの土産物の露店が立ち並んでいた。日が暮れかけていて、土産物屋たちは店仕舞いに忙しそうだった。
世界遺産を目指す麗江
翌日古城をぶらついていると、ある一角では、建築ラッシュといってもいいほどコンクリート製の箱型ビルが壊されて、ナシ族ふうの木造建築に立て替えられていた。20人もの男が、木を組んだ建物の側面 をロープで引っ張って、垂直に立てている。
「イー・アル・サン!・・・イー・アル・サン!」
勇ましい掛け声が響いていた。
木製の脚立の上では、男が壁に白いペンキを塗って化粧直しをし、天秤棒の両端に下げたブリキのバケツで水を運んできた老婆は、砂を混ぜたコンクリートのカルデラ湖のように窪んだ穴に、水を注いでいた。一見、地震のあとの復旧工事のようだった。
おなかがすいたので古城の外に出て適当な食堂に入り、油炸排骨(揚げたスペアリブ)と、トマト・玉 子のスープと御飯を頼んだ。店の奥さんが、ガラスコップに緑茶を持ってきた。
料理がすべて運ばれてきたので食事を始めると、私が外国人だと知ってか、厨房から30前後の主人が出てきて、私のテーブルの反対側に座って、お茶を飲み始めた。そして私に日本人か?と聞いた。私はそうだと返事をして、熱々の排骨を割り箸でつまんで口に入れ、肉を食べたあとの骨を床に吐き捨ててから聞いた。
「古城は大変な建築ラッシュですね? 地震のせいですか?」
「あァ、あれかい? 地震のためじゃないんだよ。地震の震源地は拉市あたりだったし、麗江の町自体の被害はそれほどなかった。そして地震から11か月も過ぎているんだから、復旧工事も終わってしまったしね。あれは世界遺産の登録を目指してのことなんだ。視察団はもともと去年来るはずだった。その時地震になってしまい、1年延びたというわけさ」
「世界遺産て、世界文化遺産のことですか?」
「そう。今年の末に登録されるかどうか決まるらしい」
「世界遺産になったら、ますます観光客が増えて商売繁盛ですね」
私がそういうと、主人は難しい顔をして、
「テレビでは毎日のように、世界遺産になることを地元の人たちはみんな期待しているなんてやっているけど、お金のない俺たちは歓迎なんかしていないよ。文化遺産になったら、麗江は有名になるかもしれないが、お金儲けしようと、大資本のホテルやレストランができて、俺たちのような個人でやっているこんな店は、衛生上よくないとか何とか、いいがかりをつけられて、閉めさせられるかもしれない。お金が入るのは金持ちだけで、ただ物価と税金が上がるばかりだし、苦しむのは、俺たちのような貧乏人さ」
どうも日ごろの胸の内にたまった鬱憤を、この主人は外国人に喋ることで解消しようとしたようだ。
「トンパ文字だってそうなんだ。そこらの土産物屋で売られているのは偽物、コピーだよ。土産物屋の大部分は、外からきた漢族たちで、ナシ語もわからず、ただトンパ文字の写 っている写真集か何かから文字だけ写して売りものにしている。自分かってに描いているから、同じ『空』を表す文字だって、描く人によって違った文字になっている。なんか俺たちナシ族はバカをみてるっていう気がするよ」
ナシ族には、結婚式、葬式、病気を治す、邪気を払う、吉凶を占うなどの時に儀式を行ってもらう習慣があった。その儀式を司るシャーマンがトンパ(東巴)と呼ばれ、そのときに使う経典の象形表意文字がトンパ文字である。
日本でも、このナシ族のトンパ文字が、カシミヤセーターの新聞広告に大きく使われたことがあった。山を表わすとんがり頭の栗の形をしたトンパ文字を中央に配し、右上にカシミヤヤギの写 真。何をかくそう、その山羊の写真を撮ったのは私である。
今ではトンパ教という宗教はほとんど廃れ、宗教と文字は切り離されて、単純に形がおもしろいとか、アートとして見る見方も出てきた。その見方が、この時代に合ったからこそ、外国人にうけて麗江の土産物にもなっているのだった。だから、何が本物で何が偽物かと判断するのは難しくなっている。
そのトンパ文字を土産物としているのが、ナシ族よりも、他の民族の商売人が多いということを主人はいいたいらしい。ナシ族には他民族に商売のうまみを持っていかれるという危機感があるのかもしれない。
「偽物のトンパ文字を、だれかが取り締まったりということはないんですか?」
と聞くと、
「ツーリズムの発展のためには、何でもありなんだよ。けっきょく、金にさえなればナシ族の文化なんてどうでもいいのさ。売れるものならなんでも売る。魂さえ売ってしまう」
捨て鉢に言い放つと、私たちの会話を聞いていた奥さんの顔を窺った。あまりそいういうことを大声でいわないでと奥さんは目で訴えているようだ。
そこへ愛くるしい女の子が出てきた。彼は3つになるというその娘を膝に抱いた。彼はナシ族だが奥さんはペー族だという。すると子供は自分の民族としてペー、ナシどちらでも選べるらしい。
「ナシ族、ペー族、どっちがいいんですか?」と私は聞いた。
「どっちも駄目さ。やっぱり漢族が一番いい」と主人は答えた。
「でも、少数民族は優遇されているでしょう?」
「チベット族や、イスラム教徒のホイ族は、外国のうしろだてがあって、政府も怖がっているから優遇しているけど、この麗江に住むだけの27万のナシ族が反乱を起こせるはずはないし、だから優遇して機嫌をとる必要もないのさ」
彼は喋っているうちに、だんだん興奮してきたらしかった。私はどう返事を返せばいいのか思案にくれた。私の困った顔を見て、気を取り直すように、
「そういえば・・・」
といって、重なりあっている屋根の隙間を指差した。
「なんですか?」
彼が指さすさす方を見ると、隙間から玉龍雪山が見えた。
「あれだよ。不思議だよなァ」
彼はホウロウびきカップのお茶を一口すすって言葉を続けた。
「雪が少ないんだ。夏でさえ、今までこんなに雪が少ないことはなかったよ」
私は、そうかと気がついた。今回麗江に着いたとき、バスから見た雪山に何か違和感を感じたのだったが、それが雪のない山だったことにようやく気がついた。
雪のない雪山・・・。
確かに見慣れた山は、いつも天辺に雪が被っていたのである。何度となく写真を撮っていたはずなのに、どうしてあのとき気がつかなかったのだろうか。
「地震と関係あるのかな」と主人はいった。
「えっ? 地震で雪がなくなったんですか?」と私は聞いた。
「そうさ。地震のあとに雪がなくなったんだよ。このあたりの人間はみんなそう信じている。そういえば、雪山の麓にスキー場を作ろうとしているらしいんだが、雪がなくなっちゃァ、スキーはできないよな。スキー場なんかいらないって、天の神様が我々人間を諭しているのかもしれない。これは天罰だよ、きっと」
そういうと、彼は皮肉な笑みを浮かべた。
「この人ったら政府のやることなすことに反対するんだから・・・」
奥さんは困ったような顔をして、あたりを見回しながら小声でそういった。
麗江新市街の毛沢東像の下で商売している貸自転車屋で、私は変速ギヤもあるマウンテンバイクを借りた。
町並を北へ抜けると、玉龍雪山に向かってペダルをこぐ。幸いその日は晴れていて、それほど風も強くなかったので、ぽかぽかと暖かく、山の麓まで続いている一直線の道は舗装されていたし、自転車に乗っているのは気持ちがいいくらいだった。
昔はそもそも貸自転車自体が少なく、ようやく見つけてもそれは、悲しくなるほど重い中華人民共和国製の変速ギアなしの自転車だった。それで強い向かい風の中、砂利道の穏やかな上り坂を延々とこぎつづけなければならなかった。時代の変化は、こんなところにも感じるのである。
10キロほど直進し、道を左に折れる。木造の骨組みに日干しレンガの壁で作ったナシ族の典型的な民家が並ぶ白沙の村に着いた。
村のメインストリートに立つと、ちょうど北の方に雪のない玉龍雪山が見えた。雪がないと気がついてしまうと不思議なもので、その雪がないことが妙に居心地の悪さを感じて仕方がない。地元の人たちが、地震と雪のないことを結び付けるのはわかるように思った。まったく関係がないとはいえないのだ。両者とも、めったにないという意味で。
自転車でさらに北へ走ると、めざす診療所が左側にあった。「麗江玉 龍雪山本草診療所」という見覚えのある細長い看板もそのまま古ぼけた建物にかけられていた。
自転車を止めると、すぐに懐かしいドクターが、重たさで汗ばんでしまう厚手の綿入れコートを羽織って中から現れると、私の手を両手で力強く握った。
「いらっしゃい。何年ぶりですか?」
「6年ぶりくらいですね」
診療所の前庭に出されているイスを勧めてくれたので、私は日だまりの中のそれに腰掛け、目をつぶって暖かい太陽に顔を当てた。
彼は屈託ない笑顔で診察室の奥から外国の新聞や雑誌を抱えてくると、テーブルの上に置いた。雑誌の1冊をパラパラとめくって彼の顔写 真付きの記事を見せてくれた。昔何度も見せてもらった(見せられた)ものだったが、私は黙ってそれを見たあと、他の新しい雑誌にも目を通 した。
記名帳もだいぶ増えた。感謝の手紙やはがきなどを、日本語、英語、フランス語など言語別 に整理している。
お礼の手紙には、いろんな病名が書いてあった。高血圧、不眠症、糖尿病、肥満、喘息、花粉症、アトピー性皮膚炎、胃病、便秘などなど。薬が効いたので、また同じものを送ってくれないでしょうかと書かれた依頼の手紙もあった。
玉龍雪山の周辺は、「植物宝庫」と異名をとるほど植物の種類が多い。とくに薬草は昔から有名で、この薬草を使って病気を治す民間療法の伝統が残っている。このドクター・ホー、和士秀さんは、白沙村に診療所を開いているナシ族の薬草医なのである。初めて彼の名前をある旅行者に聞いたとき、正直にいうと、ちょっと怪しいおじさんかなとうさん臭く思ったのだった。
彼はこの年74歳になっていた。しかし、皺は増えたとはいえ、あの童顔は同じだった。灰色の顎鬚が、いかにも隠れ里の仙人のような感じなのだが、喋ると穏やかな声で、目が優しく輝く。それが人懐っこい印象を与えるのだった。有名人だろうが、普通 の旅行者だろうが、区別しないザックバランな性格、これが彼を慕う人を増やしている一番の理由ではないだろうか。
ヤカンに入ったハーブ茶をすすめてくれる。薄緑色したお茶は独特の香りと味をしていて、おいしいとはいえず、やはりどちらかというと、薬の部類に入る。´80年代中ごろ、たいていの旅行者は、私と同様、麗江の町で自転車を借りて、12キロ先の玉 峰寺というチベット仏教のお寺を見学に行っていた。タクシーなどもなく、旅行社も積極的にツアーを組むことをしない時代だったからだ。
この寺の境内には大きな山茶の大木があった。椿の大木である。高さは3メートル、幹の太さは40センチ、500年の歴史があるそうだ。世界最大の椿の木といわれている。(ほんとかなぁ?) 春に訪ねたことがあったが、その時は満開の椿の花を見に、ナシ族やイ族の家族づれがやってきて賑わっていた。
この寺のラマ僧といっしょに食事をしたこともあった。「食べろ、食べろ」といって手に山盛りの豚の脂身をもらって、泣きそうになったことを覚えている。ドクター・ホーの診療所は、玉峰寺の途中、ここ白沙にあった。寺を訪ねたとき、必ず診療所の前を通 り、そのたびにハローと声をかけられて、しばらく立ち話をしていたのだが、そのうち彼に興味が出て、5日間ほどそこに通 って、彼の仕事ぶりを見ていたことがあった。
1884年にオーストリア・ウィーンで生まれたアメリカ人植物学者でもあり探検家でもあったジョセフ・F・ロックは、1922年から1949年まで、たびたび麗江に滞在した。そのとき、ドクター・ホーも、彼から英語と薬草について学んだ。
彼も文化大革命時代は苦しい生活を体験した。当時の話を聞くと途端に口数が少なくなったが、「村は地獄でした・・・」と辛そうに語った彼の顔が思い浮かぶ。
中国の政策が変わって´85にライセンスがおり、この「麗江玉龍雪山本草診療所」を正式に開業することができた。ドクター・ホーもまた中国の対外開放政策によって人生が大きく変わった人物のひとりだった。
彼は旅行者の間でも有名になり、中国国内や遠くは外国からも彼の調合する薬草を求めて訪ねてくるようになった。英語がわかることも、外国人に有名になった理由のひとつだろう。
診療所を開いて1年たつかたたないうちに、彼の名はアメリカの「タイム」誌で紹介されることになった。その後も各国の雑誌や新聞でも取材を受けている。
1991年3月には、映画「ラストエンペラー」に出演した香港の俳優も彼を訪ねてきた。胃の病気に悩んでいたが、ドクターのマッサージとハーブによって、それはすぐ解消した。また、4月には、駐中国イギリス大使、カナダ大使の一行がここに立ち寄った。イギリス大使婦人には座骨神経痛があったが、ドクターのハーブを使ったところ、それが軽くなったといい、2か月後、礼状が送られてきた。それにはエリザベス女王の写 真というオマケまで添えられていたという。
彼は村人の診察や治療のかたわら、山からいろんな薬草を採取して効能や配合を調べ、実際の治療に役立てている。ただ、薬草医とはいっても、薬草だけで病気を治すわけではない。患者の病気を診て、薬草と西洋医学の薬を使い分けたり、併用したりする。
「肺癌のような病気でも、西洋医学と漢方のコンバインが大切だということですよ。大きな病院では医者は西洋医学を学んで、ハーブのことをないがしろにする傾向がありますが、西洋医学だけが万能ではないということを医者は知らなければなりません」 あるとき、こんなことを熱っぽく語ってくれるのだった。また、こんなふうにもいっていた。
「西洋医学では外科、内科、婦人科などといろんな科に分けてしまいますが、私は人間の体をひとつの系として考えています。全体をとらえなければ部分もわからないということです。いや部分だけに気を取られすぎると、全体が見えなくなるといってもいいかもしれません」
このあたりでとれる貴重なハーブをいくつか見せてもらったことがあった。心臓病、血液の循環に効くという「金星七」「雪山チー」「丹参」「紅隔山消」などなど。「雪山チー」は貴重で、ドクターは息子といっしょに玉 龍雪山に上ってこの植物をとってきたが、生えていた範囲は1アールほどの狭い場所だった。そんな話を聞いたせいか、その干からびた茶色い木の根に見えるものが、とても病気に効くような気がしてきたものだった。
ある日、私が彼の保管してあるこれらの珍しいハーブの写真を撮らせてもらっているとき、ドクターは外へ出ましょうと私を促した。どうしたんだろう?と訝しく思いながらドクターに連れられるまま、診療所から100メートルほど離れた玉 龍雪山の見える畑にいった。彼は畑の畦道を歩いていき、座り込んで私を手招きしたので近づいていくと、そこに生えていたレンゲのような草を取り、諭すようにいったのだった。
「あなたはことさら珍しい薬草ばかり写真を撮っていますが、こういう雑草でさえ、ハーブとして何かの役には立つんですよ。役に立たないものなどないんです」
(玉龍雪山の写真は1998年12月に撮ったもので、内容とは違っています。雪はありました)
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