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5角払ってミャンマーに渡る
1992年の暮れ、東京にいた私のところに夜11時半ころ電話があった。
「国境地帯がほとんど開いたよ」
受話器からはうわずった声が聞こえてきた。雲南省の省都、昆明に留学している友人からだった。雲南のミャンマー、ラオス、ヴェトナムに接する国境地帯の30数県が一挙に外国人に開放したというのだ。当分開放することはないだろうと諦めていた地域で、それが30数県も開放してしまったので驚いてしまった。しかも、その中には、雲南省南部のメコン右岸にあたる数県も含まれていた。右岸の数県は雲南省の中でも貧しい地域だという。ミャンマーとの国境に接していて、焼き畑を生業とする、ラフ族やワ族が住んでいるらしい。友人が興奮して電話してきたのもわかる気がした。私がランツァンジャンの右岸を初めて旅することができたのは、'93年の3月のことだった。昆明から直接リンツァンまでの乗り合いバスを使うことにした。朝6時半に出発したバスは途中食事やトイレの休憩をしただけで、22時間後リンツァンに到着した。途中、ランツァンジャン本流にかかる唯一のダム「マンワン・ダム」を通 過した。
ランツァンジャンはチベット高原から延々と大峡谷を流れてきて、地理的な条件から大きな町ができることはなかった。しかしここには大きなダムが作られていて、そのために街も活気づいている。工事中の部分が多かったが、ここのダムの水力発電所で発電した電力をもとにして産業を活性化させ、不足する電力を補うという。
リンツァンからさらに南下して、瀾滄(ランツァン)の街へ。ランツァンジャンの瀾滄である。中国ではメコン河のことをランツァンジャンと呼んでいるが、このランツァンというのは、タイ語のランチャーン、ラオ語のランサーン(100万の象、あるいは象の広場)に当たるという説もあるようだ。昔はこの辺りにも象がたくさん生息していたのだろう。
ところで、この町の入り口、三叉路の真ん中に大きなモニュメントが立っていた。「瀾滄11・6地震紀念碑」である。片腕に子供を抱いた男性が、もう一方の手で上の物体を押えている。男性が立つ台座には、横長の金属製のレリーフ。地震災害が起こり、それがどの様に復旧してきたかが表現されている。
町はこのレリーフ通り、新しいビルが立ち並ぶ近代的な町に変貌していた。実は私は、'87年、まだ外国人に開放していないときにも、こっそりこの町を訪れているのだが、その時は灰色がかったすすけた町の印象しかなくて正直びっくりしたのである。
瀾滄から西に道をとる。ふたつほど峠を越えて、割合広い盆地に出る。そこがモンリェンの街。('95年7月、この原稿を執筆中に、モンリェン近くで大きな地震があったと報じられた)そこからに西に行くとミャンマーとの国境で、モンア。幅40mほどの川が流れていて、それが実際の国境だった。5角の通 行料を払って橋を歩きミャンマー側に渡る。国境を守る兵士の姿もなく緊張感は微塵もない。中国側の橋のたもとでは工事が行われていた。
中国の経済的な発展は目覚ましいが、内陸部は発展から取り残されてきた。雲南も発展から取り残されてきた地域のひとつである。しかし今日の30数県の開放で、雲南がこれまでの秘境から、東南アジアやインドシナに対しての表玄関に変身しようとしている。今、雲南では国境に沿ってたくさんの交易所が作られている。このモンアの工事も、中国人とミャンマー人との交易所を作っているのだ。
ランツァンに戻った私は、バスでスーマオ(思茅)に向かった。バスは午前6時半の出発だった。出発間際の混雑に乗じて人のポケットから物を抜き取るスリに財布を取られそうになったのを危うくかわして、座席に座る。
メコンの支流黒河を左に見ながらどんどん下り、2時間ほどでメコンの本流ランツァンジャンにぶつかった。
バスは橋を渡る。ここも、ランツァンジャンは峡谷を流れていて、川幅はそれほど広くない。幅は200mほど。橋を渡ると15分くらいは河を右側に見て走る。両側は切り立った崖で、所々に見えるちょっとした斜面 は小規模な畑になっている。川に沿って大きな町ができる地形ではない。木製の吊り橋を見かけたが、人の気配はまったくなかった。バスからは見えない崖の上に村でもあるのだろうか。
前方の山が河霧に包まれて幻想的な雰囲気だ。ふと、川に船影を発見。いや、良く見ると青竹の筏だった。その筏にドンズ(小さな椅子)を置き、腰を下ろしている3人の人たち。いったいどこまで流れて行くのだろう? ちょうどこの筏を見た地点から突然道路は高度を増し、メコンに別 れを告げて東の方に折れてゆく。
将来はここからわずかに下ったシャオカンランパというところが国際港になるらしい。スーマオから3時間でこの港に道路が通 じ、ここで荷物や客が船に乗り換える。そうすると2時間で景洪に着き、8時間でタイの黄金の三角地帯に着く。開発の規模が大きすぎて、ここが将来どんな風に変わるのか想像もできない。
雲南の北部・中部では、ランツァンジャンの直接的な惠は感じられなかった。それがようやく開けた平地になり、水田や畑の潅漑用水として、また地元の人たちの生活用水として重要性を増すのは、雲南省でも最南端、西双版納になってからである。
西双版納、モンフン日曜市
初めて景洪を訪れたのは、今から8年も前の1986年の3月。旅行許可証なしで外国人が自由に来ることができるようになった年だ。4月中旬まで滞在して、タイ族の正月「水かけ祭り」を過し、行事のひとつである、竜船競漕を見た。その時、初めてメコンの本流に出会ったのだ。
乗り合いバスで、雲南省の省都昆明から西双版納タイ族自治州景洪に着いたのは、出発してから3日目の昼過ぎだった。街のど真ん中に市場があり、その喧騒の人込みを抜けて版納賓館へ向かったことが、つい昨日のことのように思い出される。漢文化とは違う、華やかで優しい雰囲気に感激しながら歩いたのだった。
あれから8年もたっている。そして前回訪ねたのは3年前だ。そのわずか3年で、市場の賑わいは同じでも、売られているものや、人の格好がだいぶ変わったようである。民族衣装の女性がますます少なくなったし、「竹楼」と呼ばれるタイ族の高床式民家が、街の中ではまったく見られなくなってしまった。今はそこにモダンなビルが建っている。
街外れに「マンティン路」という公園に続く通りがある。'86年には2軒のタイ族レストランしかなかったが、その後雨後の竹の子のようにレストランが増え、今では通 りの両側がすべてレストランに変わり、夕方ともなれば観光客であふれかえる。外国人の中にはタイ人の姿も見掛けるようになった。
賓館の周りでは、何と言っても目立つのが多くの旅行社だ。入り口の看板には、西双版納の地図はもちろん、ミャンマー、ラオス、金三角(黄金の三角地帯)も描いてあり、観光客を呼び込んでいる。観光業花盛りという感じだ。ミャンマー・ラオスを経由するタイまでの観光道路と、メコン河を走る国際船が本格的に運行されれば、ますます賑わいは増すだろう。
前回、3年前に来たときには、メコンを下る乗り合いの船がカンランパというタイ族の村まで1日2本出ていたが、「今はない」という話を聞いた。地元の人に訳を尋ねると、乾季で水がないからだという答えが返ってきた。ところがあとでそうではないと分かった。船は出ていたのだ。しかしそれは観光用の船で、地元の人が足替わりに使う交通 機関ではもうなくなっていた。乾季で水がないからではなくて、川に沿ってカンランパまで、立派な舗装道路が完成してしまったことが理由だった。この区間を頻繁に走っている乗り合いのマイクロバスに乗れば30~40分で着いてしまう。片道2時間もかかる船は時代遅れなのだ。
カンランパを訪ねてみると、3年前は綺麗に整備してあった船着き場も、土砂が積もって寂れた感じがした。交通 機関が変ると人の流れが変わり、町の賑わいさえも変わってくる。
カンランパまでの船はなくなったが、逆に長距離の船が走り始めている。'90年の10月末、中国の小型貨物船がメコンを下りラオスのビエンチャンまで航行したが、これが中国−ラオス間の初めての国際船だったという。今では、景洪からメコン河を下り北タイやラオスまで走る国船船が本格化している。西双版納が近代的になり観光客が増えることは、もちろん悪いことではない。しかし、あまりの急激な観光化は、山に住んでいる人たちに戸惑いを生んでいるのも事実のようだ。 ミャンマーとの国境、打洛を目指し、モンハイの町から南に向かう。
打洛までの途中にモンフンというタイ族の村があるが、ここはちょっとした思い出のある村である。
雲南省を旅していると(雲南省ばかりではないが)、いろいろな所で定期市にでくわす。「街子」などと呼ばれるその定期市は、週1回とか、4日ごととか、「5」のつく日だとか、その土地様々の周期で開かれる。平日は静かな場所が、その日になると朝から人でごったがえし、いろいろな物の売買で賑わうのだ。
モンフンもカンランパと同様、毎週日曜日に市が開かれている。この市には漢民族のほか、数種族の少数民族が集まってくる。タイ族をはじめとして、アイニ族(ハニ族の1支系)、ラフ族、プーラン族、そのほか、中国政府からまだ独立した一民族としては認められていない、アク族などもやって来る。
この市に来たのは、ほんの偶然からだった。それは初めて西双版納にやってきた1986年のことだ。ある日私は、今回と同様、モンフンからもっと先、ミャンマーとの国境打洛に行くつもりだった。ところが、この村を通 りすぎようとした時、乗っていたバスが、今から思えばほんとに運が良かったのだが、故障してしまったのだ。それで、バスを修理中の30分間ほど、市をぶらつくことができた。
ちょうど日曜日で、たくさんの少数民族の人たちが集まっていた。まるで日本の武将の兜のような帽子を被っている民族。頭の髪の毛を短く刈って、派手な色のスカートを穿いた女性集団。長いパイプをふかす男。ナポレオンの帽子の様に黒い布を頭に巻き付けている娘。何てカラフルな市なんだろうと思ったものだった。もちろん旅行者などは、ひとりも見かけなかった。
ところが、その1年後再び訪ねてみると、外国人旅行者もボチボチ来るようになっていて、さらに1年後には景洪にある国営の旅行社がバスツアーを組んで、観光客がわんさと押し掛けるようになっていた。
それまで、この市で売り買いされていた物といえば、野菜、果物、魚、日用品、牛、豚の肉などだったが、大理の月曜市と同様、ここにもいつの間にか民族衣装やアクセサリーや織物などの土産を売る人たちが現れた。
「土産を売る人」というよりは「土産を買う人」が先に現れたといったほうがいいかもしれない。というのは、こういうことだ。観光客が来始めたころ、特に欧米人だったが、アイニ族のおばさんに、被っている帽子を指差し「ハウ・マッチ?」と聞きながら追いかけている場面 を見ることがあった。彼女たちの腕を掴まえて、値段を聞く欧米人もいた。彼女たちは、恐怖で顔を引きつらせて逃げ回っていた。
それはそうだと思う。今まで見たこともない背の高い人間が、訳の分からない言葉を喋りながら追いかけてくるわけだから、素朴なおばさんたちにしてみれば、まるで悪魔にでも追いかけられていると感じたとしても不思議ではない。
でも、そのうち、追いかけられている意味が彼女たちにも分かってきた。中にはお金を出しながら追いかける西欧人もいたからだ。そうか、あの白い鬼たちが私たちを追いかけ回すのは、この帽子や衣装が欲しいからなのかと気がついたのだ。こうして、ようやくお金と帽子の交換が成功する。
昔、白人たちが全世界で「発見」した大陸で、もちろんお金は使わなかったにしろ、同じような事が行われたに違いない。あぁこういうふうにして交易が始まるのかと、まるで歴史の教科書を見ているような、妙な感動を覚えたものである。
アイニ族の人たちも、今では、どういう物が売れるかよく知っていて、白人を見て逃げだす人も、もちろんいなくなった。むしろ、積極的に衣装などを売るようになった。昔は旅行者が「ハウマッチ?」と聞いていたのに、今では地元のおばさんたちが逆に「ハウマッチ?」と聞いている。土産物を売るためだけ、山から下りて来るおばさんもいるようだ。バナナや唐辛子が、こうして、民族衣装などの土産物に変わったわけである。
ある旅行者が、銀の飾りがついた胸当てを買ったというので、見せてもらったことがあったが、その胸当ての内側を見て、ギョッとした。おばさんがつい今しがたまで身につけていたらしく、たぶん虫刺されの跡だろう、血痕の点々やかさぶたも付いていて、はっきり言って汚かった。もちろん臭い付きだ。そういう物を好む特殊な趣味の人ならお金にいとめをつけずに買いあさるだろうが、ノーマルな人だったら買ったらすぐに洗濯しなければならない。その旅行者も、胸当てをビニール袋に入れてホテルまで持ち帰り、水道で洗っていた。
そんな風にして民族衣装を売ってしまったおばさんは、真新しいジャージを着て山から下りてくる。だから、年とともに民族衣装を着ている女性が少なくなっているようだ。因みに、今北タイのチェンマイや首都のバンコクでは、山岳民族の衣装が買える。そこに流れている中にも、中国雲南省のものを見つけることができる。
この市をずっと見てきて、地元の人にとってはまったく普通の場所が、どういうふうに観光地になっていくのか、目の当たりにしたような気がする。恐らく北タイもこんな感じで観光化が進んでいったのだろう。外国人がトレッキングに来るようになって、山岳民族が進んで自分たちの民族衣装を売り始めたのではないようだ。やはり、最初は外国人がそういうものを欲しがったせいだろう。
雲南省のこんな田舎の村が、外国人が常時滞在するような村になり、その変貌ぶりに驚いたのだが、この2、3年で再び事情が変わった。そもそも外国人がなぜここに泊まるようになったかというと、当時は景洪からもモンハイからもバスの便が悪かったということにある。日曜日の市は夜明けとともに始まり、昼ころには終わってしまうので、市を見るためには、前日ここに来て泊まるしかなかったのだ。ところが、バスの便が良くなってくると、市の立つ朝に町を出れば間に合うようになってしまった。だから、一時期よりも外国人が泊るということは、むしろ少なくなってしまったようだ。
たぶん、これから北タイからミャンマーのチェントンを経由して雲南まで通じる観光舗装道路が完成すれば、もっと観光客は分散し、ここだけが特別 の村ではなくなってしまうだろう。そのとき、村は再び静けさを取り戻すかもしれない。
サイコロ博打で負けたダールオの夜
私はモンフンから更に南に向かった。国境に近づくにつれてゴム畑が多くなる。
打洛(ダールオ)の町に着いた私は、タイやミャンマー製品を商う商店街の一角にある、'86年には見られなかった立派な招待所に荷物を置き、ミャンマーの方へ向かって歩いていった。
街の中を南覧河が流れている。実際の国境線はこの橋を渡ってさらに三キロほど南に行ったところだ。橋の上にはタイ族の女性が20人ほど並んでいた。ミャンマーのチェントン(シャン州の町)でも見られる動物サイコロ博打である。でも、ここのは動物ではなくて、普通 の数字が描いてあるサイコロだ。
実際の国境には、1m30cmほどのコンクリート製の柱が立っている。漢字で「中国」、反対側にはビルマ文字で国名が書いてある。柱の周りには屋台が出ていて、たまに来る観光客に、ミャンマーから運んできた玉 石、お金、アクセサリーなどを売っている。国境の検査駅には検疫所があって、ミャンマーからやってくる車両は停車を命じられ、係員の噴霧器による消毒を受けなければならない。ミャンマーよりは文明国なのだということを見せつけているのだろうか?
さて街の屋台で夕食をとってから、私はもう1度橋へ行った。もちろんサイコロ博打に挑戦するためだ。この博打を地元では「マクロー」と呼んでいたが、何語でどんな意味なのか、だれに聞いても分からなかった。ただミャンマーからやってきたことは間違いないようだ。
街灯がないので、みんな蝋燭を置いている。遠くから見ると蝋燭が1列にならんで黄泉の国に迷い込んだような気分になってくる。マクローをやっているのはみんな地元のタイ族の女性たちで、「遊んでいきなさいよ」とニコニコして声を掛ける。適当な台に私は座る。
ルールはミャンマーと同様、1から6までの数字にお金を賭けるわけだが、3つのサイコロのうちひとつでも自分の賭けた数字が出れば、掛け金が2倍になって返ってくる。もしふたつの数字に同時に賭けてその目が出れば掛け金の3倍(ミャンマーでは6倍だった)が返ってくるというものだ。
掛け金はほとんどが1元や2元。人によっては5角というのもある。別にこの博打で一財産を築こうなどというものではなく、地元のおっさんなどが仕事帰りに、ちょっとマクローで儲けて煙草代にしようという程度である。まあ、日本で言ったら、パチンコ屋に寄るようなものだ。(パチンコで一財産築いた人もいるかもしれないが)
さて、マクローの台に向かって座り、紐を引くと、上に引っ掛けてあった3つのサイコロが台を転がってくる。私は、初めの4、5回は様子をみて、出やすい目を知ることにした。サイコロは機械で作られたわけではなく、人が削って作ったものだから、ひとつひとつの数字がかならずしも確率6分の1で出るとは限らない。かならず癖があって出やすい目があるはずだった。
そのときは1と6が出やすい目だったので、私は6に賭けて、それからずっと6に賭け続けたのだが、これが面 白いほど勝ち続けた。
「6だ!6来い!」と私。
「2、3よ!2、3よ!」と娘が叫ぶ。
しかしまた6が出る。私は笑いが止まらなかったが、反対に彼女はさっきのニコニコ顔がいつの間にか真剣な表情に変わっていった。
そのうち周りのタイ族女性たちが、どうしてこの男は勝ち続けるのだ?と疑問に思ったらしく、自分の商売をそっちのけでこの台の周りに集まってきて、彼女にアドバイスする。サイコロに水をかけたり、自分の座る場所を変えて縁起をかつぐ。そんな非科学的なお呪いよりも、科学に裏打ちされた確率を信じていれば、絶対負けるはずがないと私は内心ほくそ笑む。
やっぱり6は出る。当然なのだ。しかし、そのうち彼女は泣きそうな顔になってきた。そして蝋燭に照らされた娘の悲しそうな顔は、科学を越えて私の心に微妙に影響してしまった。なんだか勝ち続けるのが悪いような気になってきてしまったのだ。そう思ったら、たぶん勝負は負けなのだろう。日本人にしたら1元はたった13円にすぎないが、彼女にしたら大金だなどと、変な気を使う。そうしたいらない同情はかえって彼女には失礼だったかもしれない。
そうこうしているうち、彼女たちはどこからか別のサイコロを持ってきてそれを使いだした。私の甘っちょろい同情など、すぐに消し飛んでしまった。当然1と6は出なくなり、だんだん負けていった。そこでやめれば良かったのだが、彼女の泣きそうになる顔をもう一度拝みたくて、出やすい目を知ろうと何度かやった。こんなに自分はサディステックなところがあるとは知らなかったが(マゾは自覚しているのだが)、蝋燭に照らされた彼女の顔が段々と歪んでいくのを見ているのが快感に思えてきたのだ。
しかし今度のサイコロはどうも「良い」サイコロだったらしく、どうしても一定の目が出ない。そのうち、いつの間にか10元をすってしまった。でも10元で30分遊べたのだからよしとしよう。
次の日、またこのマクローの台の前を通ったが、彼女は一切私とは目を合わせなかった。そればかりか「遊んでいきなよ」という声を、だれからもかけられなくなってしまったのは、寂しい感じがした。
打洛のような田舎では、まだほとんどのタイ族女性は民族衣装であるサロンを腰に巻いて、ブラジャーが透けて見えるくらいの短い上着を着ているのだが、マクローをやっているタイ族の女性の中に、髪を短くしズボンを履いて、まるで漢族のような格好をしている17才くらいの娘がいた。
彼女によれば、マクローが打洛で始まったのは'93年の4月からだという。台はミャンマーから買ってきた。どうして、動物ではなくて数字なのか?と尋ねると、ミャンマーで動物を使っているのは知っているけれど、あれは子供が遊ぶものよという。でも、あの動物の方が情緒があっていいと思うのだが。中国人はもっと現実的なのだろうか? 中国では数字を読める人間が多いが、ミャンマーには多くなかったということなのかもしれない。マクローも近代化すると、動物ではなくて数字になってしまうのだろう。
おもしろいことに、マクローが許可されているのは、橋以南のミャンマーに近い国境周辺だけだった。つまり、中国では博打は禁止されているので、橋の南側だけは、半分外国ということになっているらしい。
私はテレビ見るの嫌いなのよ
私は打洛からいったんモンハイまで戻り、そこから今度は乗り合いバスで、プーラン山へと向かった。プーラン山というのはプーラン族が住む山という意味だが、茅葺きの民家が30~50軒づつまとまった村が、数kmおきに点在している。
外国人の顔など初めて見たらしく、村人の半数以上が集まってきて私を観察した村などもあった。かと思うと、売店が3軒もあり、私の姿をめざとく見付けた青年が売店のおばさんに入れ知恵をして、ソフトドリンクやビスケットを3倍の値段で売るような「開けた」村もあった。
マンオーという名の村には、一番高い場所に寺が建っていた。プーラン族も上座部仏教を信仰しているのだ。ちょうどタイから来たという僧侶が数人、そこに泊まり込んでいた。翌日村の子供の得度式があり、彼らはその監督もつとめるという。
寺から村に坂道を降りていったとき、ある民家のおばさんからお茶に呼ばれた。
高床式住居の階段を上っていく。ベランダから中へ入ったが、目が暗さに慣れるまで、しばらく時間がかかった。部屋の中央にある囲炉裏では薪が燃えている。私はそのそばに座ると、おばさんはホーローびきのカップにお茶を注いで出してくれた。
私は、どこから来たかだの、これからどこへ行くだのという話をし、彼女は村の生活の話しをした。その合間に、彼女は何度か「私たち少数民族は貧しいよ。あなたたち漢族は裕福だ」といった。それで私はそのたびに「いえ、違います。私は漢族ではなくて日本人です。外国人ですよ」と説明する。しかし彼女にはよく分からないらしい。彼女らにとって、漢族も外国人もそれほどの違いはないのだろう。いずれにしても、外から来た金持ちには変わりないわけだから。
部屋を見回すと、それほど多くない家具の中に足踏みミシンとテレビが目に入った。この40戸ほどの村でテレビを持っている家は数軒だというから、彼女の家は金持ちの部類に入るのだ。彼女のお兄さんがタイに出稼ぎに行ったということだった。
「テレビは、どんな番組が好きなんですか?」と私は尋ねた。
「私はテレビ見るの嫌いなのよ」とおばさんはいう。
「どうしてですか?」
「私たちは、毎日毎日、山へ行って木を切ったり、畑に種を蒔いたり、仕事をしないとダメでしょ。それなのに、アメリカ人も、フランス人も、日本人も、みんないい所に住んで、綺麗な着物を着て、おいしいものを食べて、毎日遊んで暮らしている。そんなもの、私は見たくないね」
なるほど、彼女がことあるごとに「私たちは貧しい」を連発したのは、このテレビのせいかもしれない。彼女の兄がタイに出稼ぎに行って金を作ってきた。村でも金持ちになった。金持ちになって、さて何をしたかというと、テレビを買った。そして喜々としてテレビを見始めたら、そこに映っているのは、外国人の豊かな暮らしぶりだった。金持ちの象徴であったはずのテレビを買って、逆に貧しさに気がついてしまった。
これと同じようなことは、北タイのカレン族の村でも聞いた。そこには地元のカレン族の娘と結婚して住みついたスイス人がいたが、彼はこう言った。
村の戸数は80戸で、そのうちテレビがあるのは5戸。テレビがなかったころは、村の生活はそれなりに幸せだった。でもテレビに洪水のように映し出されるのは、車、バイク、テレビ、化粧品のコマーシャル。コマーシャルを見ているうちに、そういう物を持っていないのは、貧乏だ、不幸だと思うようになってきた。だからと言ってすぐ買えるほど村人は金を持っている訳ではなく、ますます自分は貧乏だと思っていく。いったい何のためにテレビを買ったのだろうかと。
もっともプーラン族のおばさんは、テレビドラマがフィクションだとは分かっていないらしく、時間が経てば、アメリカ人や日本人が必ずしもみんながみんな裕福で毎日遊んでいるわけではないことを知るだろう。そして戦争や飢餓で自分よりもひどい生活を強いられている人たちのこともきっと知るに違いない。
雲南・ミャンマー・タイ・ラオス4か国の国境地帯にすむ人々の生活は、急激に変わっている。観光業で一財産を築く人や、古い文化をおしげもなく捨て去る人、ここにはいろんな人生が見え隠れしている。しかし、どんなに山奥の村に住んでいようとも、近代化とは無縁ではいられない。近代化の触手は、山奥まで伸びる、人がひとりやっと通 れるような細い道を伝っても、そして空からはテレビの電波に乗ってやってくるのである。
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