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タイ族の民家を中国語で「竹楼」と呼ぶ。 昔は、実際に竹を使った入母屋の高床式住居だったが、強度の問題から、竹の代わりに木が使われるようになった。湿潤な気候では、隙間だらけの高床式は暑さもしのぎやすくて、下の部分では農具を置いたり家畜を飼ったりする空間として利用されている。 ただ、この建築も時代の流れで、今ではコンクリートやレンガを使った住居も現れた。気密性が高くなって、かえって夏は暑く感じるようになったという話も聞く。しかし名前だけはまだ「竹楼」で通 じる。 町の外れの曼聴路は、「竹楼」が並ぶタイ族の典型的な家並を残していた。今は昼と夕方の食事時になると、観光客でごったがえすレストラン街になった。この通 りにレストランができたのは、1986年のことだった。アイヤンさんというタイ族が、ここで最初のレストランを開いた人物だ。 景洪を訪れる観光客が年々増え始めていたころ、曼聴路などを見学にきても、民家で水や食べ物を分けてもらわなければならなかったり、トイレを借りたり、不便を感じている観光客がいることを彼は知って、レストランを開けば商売になるのではないかと思いついた。 この計画を打ち明けられた彼の奥さんは、泣いて反対した。もともと農民で、こんなことをやろうとする人間は他に誰もいなかったし、やっていけるかどうか心配だったのは当然だろう。1986年といえば、中国の開放政策がこのままずっと続くのかどうか、まだ疑問視されていた時代だ。 「もし、レストランを作って、うまくいかなかったら、その時はまた田んぼや畑を耕せばいいじゃないか」 と彼はいって奥さんを説得した。 開業した当初、タイ族レストランは奇異な目で見られ、通 りから石を投げつけられることもあった。客の中には、食器やビール瓶を割って嫌がらせをする連中や、ただで飲み食いをしていくチンピラもいた。しかし彼らは我慢して店を続けた。 1年たち2年たち、アイヤンさん経営のレストランがうまくいっているのを見て、周りにぞくぞくと新しいタイ族レストランができていった。今まで彼らのことを冷ややかに見ていた人たちが、いったん商売になるとわかった途端、真似し始めたのである。曼聴路の賑わいは、アイヤンさんのアイディアから始まったといえるだろう。 景洪から、瀾滄江を下ったところにガンランバ(モンハン)というタイ族村がある。船で2時間ほどかけて下っていったものだった。船は2階が客席で、1階は水牛を乗せたり、特産品のパイナップルやバナナなどを積み込んでいることもあった。今では、川に沿った道が完成し、景洪から車で30分で着けるようになっている。 ガンランバには「バンブー・ハウス」という名のゲストハウスがある。「竹楼」を英語で訳すとこうなるわけである。 木造のタイ族民家に、コンクリート製の洗い場とベランダを付け足した。建物は隙間だらけで、南国の西双版納とはいっても、冬はけっこう冷えることもあった。各部屋は木の板で仕切られていて、一応2人部屋とか3人部屋に作ってあり、床にマットレスを敷いてあったが、宿としてはそれほど設備がいいとはいえなかった。 村には今でこそ蝶の博物館や民族村ができているが、昔は、まわるべき観光地というものもないし、退屈といえば退屈な田舎の村だった。それでも、いや、それだからこそなのかもしれないが、妙に落ち着くのだった。私ばかりではなかった。ここが好きで泊まっている人は声をそろえていった。バンブー・ハウスに流れているゆったりした時間と空気、そしてこのゲストハウスを開いた主人アイグァンさんの美味しいタイ族料理、これを売り物にしていたのである。そしてまた、瀾滄江の川面 が黄金色に変わる夕方、日中の暑さがやわらいだときの、あのけだるさがガンランバの魅力だったのかもしれない。 アイグァンさんが亡くなったという話を聞き再訪したのは、97年のことだった。 彼女たちのお父さん、アイグァンさんが亡くなったのは、96年8月。51歳だった。資料は82年の調査で少し古いが、雲南省のタイ族平均寿命は60.2才だから、51歳というのはタイ族でも若くして亡くなったということになる。 酒が好きだったので肝臓でも患ったのかなと思っていたが、それは違っていた。死因は食道癌だった。 アイグァンさんは、いつも日本人の宿泊客には「オサケ、オサケ」といって酒を勧め、自分もしこたま飲んでいた。酒好きな彼のためにだれかが置いたものだろう。墓の前には縁が欠けた猪口がふたつ転がっていた。 彼を慕っていた外国人旅行者は多かった。ゲストハウスに置かれている旅行ノートには、なるほどソックリ!と納得してしまうのだが、赤塚不二夫氏の漫画「天才バカボン」の「バカボン・パパ」と似ているので、それが日本人旅行者の間でのニックネームになっていることや、お酒飲みのアイグァンさんの人柄にふれた寄せ書きがあり、それを読んで、みんな彼に好意を持っていたんだなぁとわかった。 確かに、何度かここに泊ってアイグァンさんにお世話になったが、見かけも含めて、人に嫌な印象を与える人物ではなかった。いつも酒を飲んでいたせいか、赤い顔をほころばせ、何かものを頼んでも、機敏に体を動かしてさっさと仕事をすましてしまう。見かけはともかく、性格は「バカボン・パパ」とは似ていなかった。 私はあるとき、なるべくたくさんのタイ族料理を作ってくれるように頼んだことがあった。タイ族の家庭料理を写 真に撮ろうと思ったのだ。彼は「可以、可以 (OK、OK)」と笑顔で快く承諾してくれたものだった。 アイグァンさんは家の近くに生えている草や木の葉を使って料理に利用していたが、これはスープに入れて煮込むと酸っぱい味が出るとか、これはちょっと苦みがあるが体にいいとか、いろいろ熱心に説明してくれた。 3回に分けて、計40種類の料理を作ってもらい、ひとつひとつの名前を聞いた。タイ語でムーハォと呼ぶ、丸い竹製テーブルに、作った料理を並べてくれた。 「もっとたくさん作れるけれど、どうする?」 けっきょくその後、ガンランバのバンブー・ハウスを訪ねる機会もなく、残りの料理を撮影することはできなかった。今となっては、彼のタイ族料理の写 真が、形見の品になってしまった。 (つづく) |
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