Vol.42
2003年8月10日、日曜日前回の旅で、フィリピンのマニラからタイのバンコクに飛んだとき、到着が夜中になってしまい、宿があるカオサンに着いたのは、午前1時を過ぎていました。開いているゲストハウスのどこでもかまわないと、バス停から近いところに入りました。初めて泊まる宿です。1泊100バーツで、トイレシャワー共同、ベッドひとつで狭い部屋でした。 その翌朝、チェックアウトするとき、フロントにあったモニターを見て驚いてしまいました。各フロアーの廊下を映し出していました。こんな安宿でも監視カメラがあるのか? 過去、盗難騒ぎなどあったからかもしれませんが、それにしても意外でした。もちろん俺は悪いことなど(悪いこととは何か?を別 にして)していないので、気にすることないのかもしれませんが、でも、気になる。非常に気になるのです。 俺は昔から(子どものころから)警察官を見るとどぎまぎし、身体の動きがぎごちなくなる質です。別 に悪いことをやっていたわけでもないし、悪いことを企んでいたわけでもないのに、そうなってしまう。 むこうから警官が歩いてくると、いつの間にか右手と右足が同時に前に出ていることに気づいて、あわてて右手は前、右足は後ろにと修正しようとするが、あせって両手、左足が前、右足だけ後ろなどという奇妙なかっこうになっていたりする。 もっとも、この年齢になって、警官の前で突然そういうことをしたら、絶対職務質問を受けそうですが、まだランドセルを背負った可愛いさかりの俺だったので、ふざけておどけてるんだな、と思われただけでしょう。 その理由を分析するのは後の機会にするとして、最近町を歩いていて俺の行動をぎごちなくさせるものが、もうひとつ現れました。それが監視カメラです。あんなバンコクの安宿にもあるくらいです。今、いたるところにあります。 最近は、この監視カメラが犯罪の犯人を割り出すことに役立ったりと、防犯カメラとして活躍しているようにも見えます。犯罪を抑止する効果 はあるのでしょう。それは俺も認めます。しかし、良薬にも副作用があるのと同じで、この監視カメラにも副作用があります。善良な市民の行動をぎごちなくさせる、それもひとつの副作用です。 他人が見ていなくても「お天道様が見ているぞ」とか「神がお見通 しです」とか、悪いことをしてもいつかは罰せられるという宗教的な誡めがあったのに、今は、もはや神でも仏でもなく「監視カメラが見ていらっしゃいます」と言った方が、子どもたちには説得力があるくらい、町のいたるところに設置されています。 監視カメラだけではありません。隠しカメラも多いようです。最近は、盗撮の被害も増えています。それからカメラ付き携帯電話。(俺は持っていません) 盗撮ではなくとも、あらゆるところにカメラの目は光っていることだけは事実です。トイレにはないだろうと思っても、もはや安心はできません。俺はトイレの中でさえ、ぎごちなくなってしまうのでしょうか。今まで絶対的にプライベートが保証されたトイレも、もはや監視の空間? 恐ろしい・・・。 まあ、そのうちできるかもしれませんね。携帯用妨害電波発信器。まわりの監視カメラに妨害電波を出して、画像を消す装置です。すぐ警察に取り締まられそうですが。 妨害電波発信器が現実的ではないなら、じゃあ、カメラから逃れて、本来の自由を得ることができるところはどこなのでしょうか。こうなったら、チベットの山奥とか、サハラ砂漠などの辺境地帯を旅するしかありません。ビンラディンやフセインではあるまいし、まさか人工衛星から俺のことを監視していることは、今のところなさそうだし。 俺はどうも他人の目を気にし過ぎる面があるようです。人の評価などまったく気にせずに、何でもやってしまう面 もあるのに。人間はこの両面のバランスを保って生きているんでしょう。この最近の監視カメラの普及で気がつきましたが、どうも昔から辺境地帯が好きなのは、冗談ではなくて、管理されたくないという潜在意識が働くからかもしれません。 それにしても、どこにでも存在するカメラ。便利になったと喜んでいいのか、管理されていると嘆くべきなのか。それも両面 のバランスが大切なのでしょう。便利さを追求すれば、管理されてくる。それは認めなくちゃならない。監視されるのは嫌だけど、犯罪も増えて欲しくない。そのバランスをうまく保っていくしかないんだと思います。 もし町で俺に会ったとき、行動がぎごちなくても、こういう理由なので、変に思わないでください。
青柳 |
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