Vol.33
2002年9月13日、金曜日、曇2週間の『オリザアート アジアの棚田』写 真展が終わりました。総入場者数は1万人ほどでしょうか。東京新宿三井ビルの1Fにあるペンタックスの写 真ギャラリーで、もともと人は入るところですが、「棚田」がテーマということで、たくさんの人の関心を引いたようです。 この会場がいいのは、写真にまったく関心がない人でも、写 真展にふらりと入ってくることができるところです。ガラス張りの会場で、通 路側にも写真が飾ってあったので、ますます入りやすいということがあります。「アジアにも棚田があるんですね」「たまたま通 りかかって見させてもらいました」など、いろんな感想を聞くことができました。写 真展は「写真家のライブ」ですから、生の声を聞くことは、励みにもなるし、今後写 真活動を続けるうえで、大変いい勉強の機会にもなりました。 今回は、ホームページで宣伝したこともあり、関東以外に住んでいる人が、東京に出る機会があって、ついでに写 真展に寄ってくれたということもありました。また、ホームページを相互リンクしてもらっていて、メールでのやりとりは何度もあるのに、会うのは初めてという人もいました。インターネットがあってのお客様ということができます。 ところで、別のページでも触れていることですが、俺が棚田を撮り始めた今から10年ほど前は、「棚田が美しい」という表現にうしろめたさを感じていました。耕作者の苦労も知らずに「美しい」と表現することが、なんだか写 真家のごう慢さにも思えたからでした。 でも、こうして数年アジアの棚田を撮り続けてきて思うのは、やはり「棚田は美しい」という事実です。人間が生きるために「こうせざるを得なかった形」というか、無意識に作っていくと結果 として人間の内側に持っている形と相似になるのではないかと思うようになったのです。 そして、今回の写真展では、何人か実際の耕作者と話す機会もあり、棚田の美しさを耕作者自身が認め始めているということがわかりました。そして棚田が注目され、ボランティアに頼ったとしても、美しい棚田が維持されることに対して、嬉しさを感じると言っていました。そして私も、耕作者の方々から、いい写 真ですねと言われることが、今回一番嬉しいことでした。 近代文明は、曲線を直線に変えることで発展してきたと言ってもいいかもしれません。それが機能的、効率的、合理的と考えられたからです。でも、ほんとうにそうだったのでしょうか? 自然に蛇行していた川を直線にしてしまったことで、洪水は逆に増えて、水質の悪化を招き、これではいけないと、再び昔の曲がった川に戻しているところさえあります。 何万年、何千年とかかって、できあがったものを、たかだかここ2、3百年の浅知恵でもって、それを人間の思いのままに支配しようとすることは、少し冷静になれば、無理なのは明らかです。 ただ、そうは言っても人間は生きなければなりません。他の動植物と同じで、ありとあらゆる手段を使って、しぶとく生き続けることを人間だけが許されないはずはありません。どんな生き物でも、生き物である以上、ある意味「自然破壊」しなければ生きてはいけないのです。だから人間が森林を開き、大地を刻んで耕作地にすることも許されるはずです。 ただ近代文明というものは、自然から許される改造の限界点を越えてしまったところに問題があるのではないでしょうか? だからその限界内でうまくやることが、生き物が生き続けられる唯一の方法ではないかと思うわけです。棚田の曲線は、その「ぎりぎりの限界線」「人間と自然とのせめぎ合い」「自然との最後の妥協点」とでもいったらいいでしょうか。そういうふうに感じられるのです。 これも前のエッセイで書いたことですが、ある写真展へいったとき、「あっ! 棚田だ」と思って近づいてみると、それは顕微鏡で撮影された魚の鱗の写 真でした。たぶん、こういう棚田のような形というのは、ミクロの世界からマクロの世界まで、あらゆる場面 に現れる相似形なのではないかと思うのです。だから、棚田の曲線が、生理的な深い部分に訴えてくるような気がしてなりません。「棚田」も「田舎」も知らない20代の知人が、俺の写 真を見て「懐かしい気がする」と言った意味も、もしかしたら、そんなところにあるのかもしれません。 前にも書きましたが、棚田を見ると「大地の細胞」という言葉が浮かんできます。そして今は、自信を持って言うことができます。「棚田は美しい」と。 青柳 |
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