Vol.26
11月27日、火曜日、晴れ
ある人からメールをもらい、写真について少し考える機会がありました。
人の写真を批評できるような立場ではないので、 写真そのものではなく、撮る姿勢というか、目的というか、俺も日々悩みながら生活しているので、そんなことを返事に書きました。
今は、プロだから、アマだからという時代ではないかもしれないですね。「写 真で飯を喰っている」というのが「プロ」なら、写真そのものの良さは、やはりプロもアマもないと思います。むしろ、時間をかけて、地の利を生かしたアマチュアの方がいい写 真を撮る人が、最近は多くなっていると思われるほどです。
さて、私も、自分の写真については、正直わからないことが多いです。いいのか、わるいのか。そんなとき、ある人から「いいですね」とか「感動しました」と言われると、それなりの満足感を得ます。言ってみれば、どんな「へたな」写 真でも、ひとりでも、その写真に感動してくれたのなら、もう100パーセント喜んでいいのでしょう。コンテストで賞を取った写 真がよくて、取らなかったのが悪いとは一概に言えません。ただ審査員の感性と合わなかったとしかいいようがありません。私も、写 真コンテストの審査をしたことがありますが、一等にした作品が、本当に一番良かったかどうか、今でも自信はありません。
写真道というものがあるとすれば、行き着く先は、たぶんこのことでしょう。 なぜ、自分は写真を撮るのか? いや、撮らざるをえないのか? という問題です。
とは言え、決して簡単な問題ではなく、私などは、それを知りたいがために、写 真を撮り続けていると言っても、過言ではないような気がします。いまだに悟っておりません。
ただ、風景写真について言えば、人物写真と同じようにシャッターチャンスというものはありますよね? 一瞬、日の光が田んぼに射込んだような瞬間。それをフィルムに写 し撮れたときの喜びは、たぶん御存知ではないでしょうか? その瞬間は、至福感でいっぱいになります。変な意味ではなく、自然、神、自分が一体になったような瞬間です。そういう瞬間は、「生きていてよかったな」と、私は、単純に思ってしまいます。
たぶん、私が写真を撮る意味は、そんなところにあるのかもしれません。その至福のときを、他人に分け与えることが、写 真なのかなとも思います。だから、そのための、多少の技術は必要ですが、■■さんは、そういうレベルは、もう完全にクリアーされているでしょう。
だから、たぶん、こういうことだと思います。 自分が、写真を撮って楽しく感じること、幸せに感じること。自分が楽しくなかったり、幸せじゃなかったら、それを他人に伝えることなんかできないですからね。もし、楽しくないなら、写 真なんかやめた方がいい。極端な言い方ですが、そう、私は思います。
マンネリは、だれにもあるものです。私も、今、マンネリを感じているところです。でも、続けていれば、いつか、ふとした瞬間に、スポッと抜けていきます。そう信じています。もし止めたら、当然ながら、そこまでですからね。
抜ける方法?
あったら教えてください。 それでは、また。
返事を書きながら、あらためて、俺にとっての写真とは、どういうことだろう?と自問自答しました。結論なんか出ないのかもしれないけど、考える(悩む)ことは、悪いことではないでしょう。
ただ、俺の場合、写真だけを考えても、なかなかわからないという事情があります。というのは、「写 真」の前に、「旅」があったからです。旅がなかったら、写真は撮らなかったでしょう。旅と写 真は、俺の中ではひとつのものです。いや、写真だけではないかもしれません。すべてが旅と関係しているように感じます。
旅する浮遊感(なにものにもとらわれない流れるような感覚)と、写 真(時間を固定して、永遠なものにする感覚)。旅をして写真を撮るのは、自然なことで、何も矛盾しないように見えますが、もしかしたら、ふたつはまったく別 な精神的活動の意味を持っているのかもしれません。だからこそ、俺は、ふたつを同時にやることで、精神的なバランスを取っている・・・。そう考えると、そんな気がしてきました。
青柳
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