極楽トンボの日曜日 Vol.25

 10月1日、月曜日、雨

 とうとう10月になってしまいました。日に日に涼しくなっています。

 8月から9月にかけて、日本各地の棚田撮影に何度か出かけました。長崎、佐賀、大分、福岡、熊本、鹿児島、徳島、長野、新潟の各県です。

 半分は車に泊まりながらの撮影旅行。新潟県栃尾市の道の駅で車を停めて寝ていたら、午前2時ころ突然眩しさで目を覚ましました。一瞬何ごとが起きたのかわからずボーッとしていると「すみません。お休みのところ」と声がかかりました。男は「警察ですが」といって、懐中電灯で照らして警察手帖を差出しました。

 「今、近くで盗難事件が起きて、警戒中なんですよ。免許証、拝見できますか?」と警官は言いましたが、俺は免許証を出しながら「ははあ、これはテロ事件と関係あるな」と、ピンときました。アメリカの同時多発テロが発生して、1週間後くらいでした。

 警官は名前住所などを手帖にひかえ、俺はいろいろと聞かれました。東京から来た写 真家で、明日は下田村へ行くことを伝えました。「経費を浮かせるために車に泊まっているんですか?」とストレートに聞かれ、「はい」と答えました。

 ところで、寝る方法はというと、後ろの席で、寝袋に入って横向きになりました。足を真直ぐにできないので、最初は大変でしたが、それも段々慣れてきてしまい、最後の方では、しっかりと熟睡することができました。以前から、俺はどうも環境に慣れ易い性格、というか体質をしているなあと思っていたのですが、今回のことでそれを再認識しました。だからこそ、雲南やらチベットやらに行っても苦痛を感じずに、長期旅行できるのでしょうが。でも、この「環境に慣れ易い」ということは、旅行者としてはプラスに作用しても、別 な面ではマイナスかもしれません。

 これとも関係するのでしょうが、俺はやっぱり旅が好きなんだなあとも思いました。窮屈な恰好で車に泊まり、かろうじて残っていた小倉パンをかじって飢えをしのぎながらも、旅していることが嬉しくて、それさえも、楽しくなってしまう。あのカーブを曲がったらどんな風景が広がっているのだろうかとか、どんな人と巡り会うのだろうかとか、わくわくしながらひたすら前に進む。停滞しないこと、それが快感に繋がっているようです。

 先日、ある芝居を観たとき「停滞しないことは、憎悪せずに済むこと」というセリフがあったように記憶しているんですが、もしかしたら、違うセリフを、俺が勝手にこういうふうに聞いたのかもしれませんが、このセリフにハッとしたんです。

 以前のエッセイにも書きましたが、川の水は流れているからきれいなのであって、もし流れが止まってしまったら、水は濁り、腐ってきます。旅(物理的な意味だけではなく精神的な意味でも)することは、川の水と同じように流れ続けること。いろんな風景の中を、いろんな人々の中を、いろんな考えの中を、いろんな価値観の中を流れること。ひとつの事、物、考えにとらわれず、自由に動き回り、決して停滞しないことが、憎悪しないですむ手段。

 とは言え、憎悪しないということが、無関心と同じ意味になってしまったら怖いと思います。憎悪もある意味、愛情の一種(裏返し)ということでもあるし。

 ところで、この前、新宿のコニカプラザに、写真展を見にいきました。「ミクロの不思議な世界」という、電子顕微鏡写 真の写真展でした。そして、ある写真を見て、びっくりしました。「棚田の写真だ!!」と思い、近づいてみると、キャプションには「魚類の舌(上皮細胞表面 )」「グッピーの鱗の表面」とありました。

 いよいよ不思議です。雲型定規のような棚田の畦道の曲線は、人間が造り上げたものにもかかわらず、やはり大きな「自然」というものからは逃れられない、いや、むしろその「自然」にさからわなかったからこそ、自然界の形に似てきたということなのかもしれません。棚田の曲線を見ていると、「地の細胞」という言葉が浮かんできます。まるで、人間の体内細胞のようにも見えてくるのです。すべてが相似形なのです。

青柳  


エッセイ バックナンバー

オリザ館雲南館メコン館シルクロード館
電網写真館ホーム


Copyright 2001 Aoyagi Kenji. All rights reserved.